驚異の果実「アセロラ」を沖縄の特産品に

アセロラは亜熱帯地方で栽培されるトロピカルフルーツ。露地栽培の北限は沖縄だ。
60年前にハワイから沖縄に導入されたアセロラは、栽培が困難で日持ちが悪く、見向きもされなかった。
そのアセロラ栽培に日本で初めて成功し、根気強く地元の特産物に育て上げたのがアセローラフレッシュだ。

農業ビジネスベジVol.27(2019年秋号)より転載

文/吉田直人 写真/三上一行

2020/09/18

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故・並里康文氏と学生結婚し、ともにアセロラ普及に身を捧げてきた哲子氏と、夫妻の志を引き継ぎ、今年三代目社長に就任した康次郎氏。

ビタミンC含有NO.1のスーパーフルーツ!

 

アセロラとは?
カリブ海域の西インド諸島や中南米一帯を原産とする常緑低木で、直径2㎝ほどのサクランボに似た赤い実をつけ、それが食用となる。ほのかな甘みと爽やかな酸味が特徴で、一粒のビタミンC含有量がなんとレモン約5個分と、果物のなかでも驚異的に高いスーパーフルーツ。ポリフェノールの一種であるアントシアニンも豊富に含み、その抗酸化作用から疲労回復、美肌、さらにはガンや高血圧などの予防効果もあるとされる。

 

誰も相手にしなかったアセロラ

アセロラはカリブ海のプエルトリコ→アメリカ→ブラジル→ハワイ→沖縄と渡ってきたといわれる。ちなみに生産量世界一の国はブラジル、世界二位かつアジア一はベトナムである。

沖縄がまだアメリカ統治下だった1958年、焼け野原だった沖縄を救うべく導入されたのがアセロラを含む6種類の熱帯果樹。その後、パイナップルやパパイヤなど他の果樹は沖縄に根づいていったが、アセロラだけはなかなか果実がならず、なっても傷みやすいなどの理由から普及せず、農業試験場で細々と栽培されている程度の、世間からは忘れ去られた存在であった。

それに光をあてたのが、農業生産法人 株式会社アセローラフレッシュ創業者のひとり、並里康文氏である(スペイン語のacerolaの発音は本来「アセローラ」なので、社名ではこちらを採用)。

並里氏は琉球大学農学部の学生時代からアセロラのビタミンC含有量の多さに着目し、その研究に打ち込み、同大の大学院を修了するころには栽培法を確立していた。また、同じく琉球大学の学生だった哲子氏と結婚。のちにふたりでアセローラフレッシュを立ち上げる。

並里氏は沖縄の基幹作物であるサトウキビの代わりとしてアセロラを普及させようと考えた。サトウキビはとくに収穫が重労働で、農家が高齢化する中で代替作物の開発・普及は沖縄全体にとっても避けては通れない課題という強い認識があった。

そこで自らの出身地でもある本島北部の本部(もとぶ)町にアセロラを根付かせようと決める。1982年のことだ。それからの7年間、並里氏は本部の土壌や気候に合った栽培法の研究や流通の勉強に没頭し、仲間集めにも奔走した。

「両親は、アセロラ栽培に協力してくれといって200軒くらいの農家を回ったそうです。でもほとんどが門前払い。まだ20代の若造ふたりが妙な話を持ってくるのだから、ある意味当然かもしれません。そんなものが儲かるのか、ダメだったときどう責任とるのか、などと罵声を浴びせられたこともあったといいます」。こう話すのは並里夫妻の息子で現社長の康次郎氏だ。

そして1989年、趣旨に賛同し、協力を約束してくれた8軒の農家とともに、アセローラフレッシュの前身である「熱帯果樹研究会=アセローラ生産者の会」を立ち上げた。

こうして協力農家とともに本格的にアセロラ栽培を始めた並里夫婦だったが、1年目の収穫はゼロだった。2年目にやっと600㎏の収穫に成功する。

喜ぶ一方で夫婦には大きな課題が突きつけられた。どうやって流通させるかだ。アセロラは傷みやすく、食べられるのは収穫から3日間だけ。これだと生果としては出荷できず、加工する必要がある。

哲子氏は自宅の台所で商品開発に取り組んだ。その結論が、ピューレだった。搾汁の工程を経ているとはいえ、味や栄養成分などは損なわれておらず、添加物などは一切使用していない。現在でも同社の稼ぎ頭となっている商品だ。

きちんとした管理と世話をしていればピンク色の可憐な花が咲く。花言葉は「愛の芽生え」。

生果としても販売しているが、青いうちに摘むためやや酸味が勝る。木で熟した実を収穫すると、3日後には傷んでしまう点が普及のネックになっていた。

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